いわえのぐ
絵を描きながらのんびり綴る日々のブログ

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
夜に咲く花 《インドヤコウボク》 2012.10.06 Saturday
          

     
                                     Photo by Blue Lotus

 

 夜に咲く花 《シウリ》  インドヤコウボク  Tree of sorrow

 

  私が住む“マロンチョ”は、ヴィシュバ バラティ大学美術学部に面し、広大な敷地の中に建てられた一軒家である。
家主は、あの有名はノーベル賞作家で、この学校の創設者であるラビンドラナートタゴールのお孫さんにあたる人である。
現在デリーに住み、国会議員を務めていると言うが、すでにかなりの高齢者で、再びこの地に帰ってくる事はなさそうである。
タゴールを偲ばせるものをこの家に見つける事は難しいが、古びた整理棚の裏側に、一つだけタゴール翁が書いたと言われる落書きが残されている。この墨で書かれたベンガル語を、訪れる人に読んでもらうのだが、達筆過ぎて未だに意味を理解できた者はいない。
大きな家である為、我々が二階に住み、階下にはドイツ人が1月ほど住んでいた。しかし、ベンガルが彼の肌に合わないと言って逃げ出したそうで、旅から帰ってみると、姿が無くなっていた。
その後インド音楽を学ぶアメリカ人の若者が移り住んで来て、一日中色々な楽器の音が聞えている。

ある日所用が有り暗くなって帰宅した。
鉄の門扉を押して中に入ると、何処からか甘い花の香りが漂ってきた。
建物に通じる道の傍らに植えられている、マツリカとは異なる、何処と無く哀調を帯び、落着いた感じの香りであった。
鼻を効かせながら嗅ぎ回っても、辺りは暗くてその主を探し出す事は難しい。
翌朝、昨夜の記憶を頼りに花のありかを捜してみた。門の近くには何種類かの花が咲いていた。自分の背丈ほどの所を捜してみるがそれらしいものは見つからない。
しかし昨夜ほど強くはないが、同じ花の香りが確かに残っている。
きょろきょろしていると、「その花を貰っても良いか?」と小さい女の子が門の外から指差している。
指差す方向を見ると私のすぐ近くの地面に無数の花が落ちているではないか。
白い花弁の先が5,6本に別れ、鮮やかな橙色の筒型をした可憐な小花が地面を埋めていた。私は女の子を手招きすると、陰からもう一人の子が現れ、一緒に入ってきた。
「この花何と言う名前?」と問うと、二人は声を揃えて「シウリ!」と答える。良く聞いてみると、二人は仕えている家の祭壇に供える為、良くこの花を採りに来ていると言う事がわかった。家の主人はこの香りが好きで、糸で連ねた花を持っていくと喜んでくれるのだと言う。祭壇に供え、朝のプジャ(祭事)を執り行うらしい。

それからこの花のシーズンと言う事もあって、方々でシウリの花を見かけた。地元ベンガルの人々は香りの強い花が大好きで、とりわけこのシウリの花が彼らの暮らしと深い関わり持っている事も知った。
シウリの花は、2〜4メートルの低木で、夕に咲き、明け方、日の昇る前にすべてこぼれ落ちてしまう。別名ヤコウボクとはその物ズバリの名である。


詩聖タゴールの詩にもこのシウリの花が良くうたわれ、叙情的なものが好きなベンガル人の心情とかみ合って、このもの悲しげな花の香は、彼らの心の奥まで染み込んでいるように思われる。 (1983年記 シャンティニケタンにて)

    


因みに、この花は植物染料としてなど利用価値が高く、花筒を乾燥させたものを使って美しい黄色を染めるのに使われている。








〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
駱駝をつれた少年 2012.08.30 Thursday
                   

     
     忘れる得ぬ人の一人。
     インド・ラージャスタンで出会った駱駝を引き連れた少年

     赤いターバンを巻いた年のころ10歳ぐらいの少年。
     二人の大人と、同年齢の少年一人は4人で駱駝200頭ほどを引き連れていました。
     
     話を聞くと、互いに血縁関係は無く、旅先で出会った者同士が行動をともにしていました。
     
     半砂漠地帯で駱駝の餌になる植物は多くなく、年長の男の経験を頼りに移動し、
     野営しながら各地を渡り歩いていました。

     
     夜、彼らが野営しているところに出かけると、
     少年は駱駝から搾った乳を使い美味しいチャイを淹れてくれました。
     自分の駱駝が50頭ほどいることを自慢げに話し、
     大人たちに助けてもらいながら旅を続け、経験を積んでいることを語ってくれました。


     あの時からだいぶ歳月が過ぎました。
     今では成人した少年は駱駝の数を増やし、荒野を歩き続けているのだろうか。

     らくだ飼の男たち  ←前掲の記事・クリック    







 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜     
    



| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
マハラージャ 2010.12.29 Wednesday
        
    
      

 



   インド、ラージャスタン州のマハラージャ(藩王)を特集した出版物をめくった。
 150年前に撮ったという写真集で、そのロイヤルファミリーの暮らしなどが紹介されている。

 地方藩主たちはいずれも特有の衣装と装身具で身を固め、剣を携えている。
 それぞれに威厳を示そうとしている様が読み取れるが、
 とりわけ蓄えた自慢の(?)髭の形がそれを象徴しているかのようで面白い。

 今、彼らの末裔たちはどうしているのだろうか?
 時代が変わり、様々な形に変身しているようだ。
 ある者は城や宮殿を利用してホテル業や商業を営んだりしているが、
 以前のように富や権威を持ったり、人々の尊敬を得ているものは数少ない。

 
  だいぶ前の話になるが、私はあるロイヤルファミリーの末裔と出会った。
 次男である彼は故郷を離れ、都会に居を構えていた。
 ハベリー(豪邸)と呼ぶに相応しい家で、そこに昼間多くの画家たちが通ってきて
 彼の持つ細密画の模写をしていた。
 
 中にはなかなかの腕を持つ画家もいて、描かれた細密画をさばいて彼は収入を得ていた。
 しかし、かつての裕福な暮らしに比べると格段の差があるのだろうと想像していた。
 
 私は彼の持つ細密画のコレクションの中から上質なものを選び模写を繰り返していたが、
 夕方一日の仕事を終えて階下に降りていくと、決まったように彼は私を待ち受けていた。
 「どれどれ今日の成果を見せてくれ」と近寄って来る彼のはく息にはアルコールの匂いが漂っていた。

 毎年のように私はこの町を訪れたが、誰から聞くのか私が滞在しているのを聞きつけて電話をかけてきた。
 家に来るようにというので、出かけて行くと彼の愛するラム酒をきまってすすめるのであった。
 話好きな彼は過去の話を延々とし、祖父が細密画の画家達のスポンサーであったことなどを話してくれた。

 それから数年後、久しぶりにこの町を訪れたとき彼の死を知った。
 そしてさらに悪いことに彼の一人息子もアルコールによる病で死んだことを知らされた。
| エッセイ | comments(2) | trackbacks(0) | odori |
羊飼いの男 2010.08.13 Friday

    

 インドの北西部、ラージャスタン州の冬はけっこう寒い。その半分以上が半砂漠もしくは砂漠地帯で、内陸性気候のため朝晩の気温は摂氏6、7度にまで下がる。だからこの時期、人々は少し離れた場所に移動したり旅する時、必ず厚手の布か毛布を持ち歩く。私はこの州の砂漠地方で年に一回行われる“砂漠祭り”を見ようと、インド陸軍のジープに乗り西の最果ての街・ジャイセルメールに向かっていた。後ろの座席に乗せられ、悪路を猛スピードで走る乗り心地は決していいとはいえず、おまけに、張られた幌の隙間から入り込む風にかなりの寒さを感じていた。
 ジョドプールの街を出発してからかれこれ4時間ぐらいは走って来たであろうか。休憩の欲しい頃だと思っていると車は急にスピードを落とし、脇道に入っていく。幌についた窓から外を覗いて見ると、辺りにはかなりの数の迷彩を施したテントが張られている。陸軍の野営地らしい。ジープが止まると前の座席から軍曹が降りてきて「Get down!」と大声で言う。鼻髭の端をはねた小太りの軍曹はさらに「ここで暫らく休んでいく。」と付け加える。降り立ったところは、草木のほとんど生えていない半砂漠地であった。辺りは陸軍関係のテントや、カモフラージュの迷彩や木の枝をかぶせたタンク、高射砲や軍事関係の車などが広い範囲に数多く散らばっていた。目指す街ジャイセルメールはパキスタン国境に程近く、この辺り一帯はいつもインド陸軍の警戒が厳しいところである。

インド陸軍のジープに乗るはめになったのには理由があった。行動を共にしていたインド人の友達が、昨夜ジョドプールに親戚がいるから訪ねたいと言い出した。訪ねたところ、そのインド陸軍の軍曹は休暇をとって“砂漠祭り”を見に行くので一緒に行こうと言う事になり今日の行動になったのだった。

時刻はお昼をとっくにまわっていて、私は朝食を簡単に済ませたせいもあって空腹を覚えていた。軍曹は新兵を呼び何やら手短に指示をしているようであったが、暫らくあってテーブルが用意されラム酒と色々な食事が運ばれてきた。軍曹は酒好きで、良くしゃべりながら強いラム酒をぐいぐい飲み干し、また人にも進めた。昼間の酒は利きが早い。

 ややほろ酔い気分で遠くを眺めていると、一人の老人がとぼとぼとこちらに向かって歩いて来るのが見えた。白いパグリー(ターバン)を巻いているのは高齢者の証拠で、肩にはショールを巻き、古びた杖を持っていた。近くまでやって来たその老人は真っ黒に日焼けしていて、スケッチの対象になりそうな良い顔をしている。早速、私は友人を介してモデルになって欲しい旨頼むと、“ティーク ハェ”(良い)の返事。少し落ち着きの無い様子を時折見せるがじーっと座っていてくれて描きやすい。通常男達のパグリーは1メートル幅で、5〜6メートルの長さの布を巻いて形を整えるのだが、この老人の物は大分使い込んでいるらしく、小振りに良くまとまっていた。幸い三十分ほどかけて満足のいくスケッチが出来上がった。礼を言いテーブルの上にある食べ物を紙に包んで老人に手渡すと、何やら辺りを捜すような仕草をする。どうしたのか問うと「実は、人と話し込んでいるすきに、連れていた羊が何処かに行ってしまった。」のだと言う。「何頭だ?」と問うと、「ドゥソ(200)頭だ」と答える。「大丈夫か?探し出せるのか?」と問うと「大丈夫だ。何時もこの道を歩いているから、羊は先に行っているだろう。」とこともなげに答える。何と言う人の良い老人なのだろうか。羊がいなくなったら大事件だと言うのに絵のモデルまでつとめて、見つからなかったらどうすると言うのだ。私は強く責任を感じた。そして来た時と同じようにとぼとぼと歩きながら次第に小さくなって行く老人の後ろ姿を「羊が必ず見つかりますように」と祈りながら見送った。

帰国してからこの老人の事を思い出す。時折その時のスケッチを見てみるのだが、顔立ちがそうなのか表情がそうなのか少々困った顔に描き止められているのである。

 

| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
修行僧(サドゥー) 2010.08.12 Thursday
     
  
     

チョーティワラー(弁髪の男)   

 

冬のハリドワールは思っていたより寒さが厳しかった。冬場に、ここガンジス河の上流にあるヒンドゥー教の聖地を訪れる人は疎らで、夏には溢れんばかりに賑わう祭りの時からは想像できないほど静かであった。それでも、遠方よりやって来たと思われる熱心な信者たちが、ガンガー(ガンジス河)の冷たい水に身を浸し、敬虔な祈りを捧げていた。

沐浴した後、男たちは皆一様に後頭部の僅かな毛髪を残して髪を剃り、弁髪姿になって行くのであった。ヒンドゥー語では“チョーティ”と言い、また弁髪の男を“チョーティワラー”と言う。数人のチョーティワラーを前にバラモン(聖職者)がプジャを行っている姿は、なんとも微笑ましく、またユーモラスにさえ思えるのであった。いわば聖地参りの証ともいえるチョーティは、死後に神がこれを掴み、天国に引き上げてくれると伝えられている。聖地でのすべての用事を済ますと、男たちは最後にガンガーの聖水を汲み、これを大事に家まで持ち帰る大仕事にとりかかる。派手な飾りの付いた竹篭に、容器に入った水を入れ、前後に振り分けて担ぐ。何十キロ、時には何百キロもの道程を、一気に歩いて帰ると言う。ご詠歌を口ずさみ、またある時は威勢の良い掛け声をかけながら。つまりこれは厳しい修行の一環で、親が子供に引き継いでいくのだと言う。故郷に帰り着くと、大小のガラス瓶に入れ大切に運んできた聖水を、くまなく親戚縁者に配って歩くのである。各家庭では祭り事を行い、皆は有り難い聖水を手に受けて口にした後、残りは祭壇に供えられると言う。

 私は妻と二人で、数日前からハリドワールの安宿に泊っていた。「ヒンドゥー教の僧(サドゥー)を描くのならハリドワールかリシケシだよ」と教えられ、遠路バラナシからやって来たのであった。ガンジス河の上流にあたるため、河の水はきれいに澄んでいて、大小多くの魚が泳ぐのを見る事が出来る。山懐に抱かれたこの町には、数多くの寺やガート(沐浴場)が続き、参詣者向けの店や宿が立ち並ぶ門前町である。多くのサドゥーたちがインド各地から集まり、厳しい修行を行っていて一般の者は立ち入る事の出来ない聖域もあった。かつて、あのビートルズのメンバーがこの地に逗留し、修行したという事で一躍名前を知られるようになった所でもある。

ガンガーのほとりを歩いていると、一際目の輝く一人の若い僧に出会った。長身で、きりりと引き締まった顔に品格があり、頭も良く切れ、いかにも将来高僧に成るであろう事が想像できる好人物であった。薄手の布を一枚纏い、小さな数珠をかけただけの姿で快くスケッチする事を承諾してくれ、満足のいく素描が出来上がった。“カイラスチャンドラ”(イラス山の月神)と名前も大きく、遠くMP州から来て修行していた。

彼の提案により、愛想の良くないホテルを引き払って、ダラムサラ(巡礼者のための宿泊所)に移る事にした。質素な宿泊所ではあったが、すぐ近くには聖なるガンガーの流れがあり、いかにも聖地に居ると言う実感があった。食事はデリー辺りまで名の知られたレストラン、“チョーティワラー(弁髪の男)”でとった。勿論、完全なベジタリアンの店ではあったが、どのメニューを頼んでも間違いなく味は素晴らしかった。

 滞在中に、絵になるような何人かのサドゥーに出会い、スケッチを試みた。その中の一人、でっぷり太り髭を生やした大柄の男、スワミーグハナンダと言う40歳がらみの人と親しくなった。1日掛かりで何枚かのスケッチをした。話好きな彼は、時に目の玉が飛び出すのではないかと思えるほど、激しい表情をしながら情熱的に話しをするのであった。僧は普段、一日に一食の食事しかしないと言う割には充分太っていた。そのせいか、長時間の写生にも充分耐えて、お礼の食事を提案すると、大喜びしてレストラン“チョティワラ”に向った。3人揃ってお薦めのターリー(丸いお盆の上に各種料理を組み合わせた物)を注文する。スワミー氏だけ、「大盛りにして!」と付け加える。運ばれてきたターリーを見ると、我々日本人のお腹に容れるには、いかにも多すぎるボリュームであった。我々のペースが落ちるのとは対照的に、僧は右手を巧みに使いながら見る見るうちに平らげていく。おまけに、一枚目が終る前にボーイを呼んで、何とお替りを言いつけるのであった。殆どペースダウンする事無く、二枚目も見事に平らげたのは言うまでもない。

 今でもミスター大食漢の素描は、目を輝かせた表情をして我が手許にある。当時、髪や髭に白い物が混じり始めていたが、今ではすっかり白髪になってしまったのであろうか。そして、少しは食事の量が少なくなっているのであろうか。            (1982年2月記)

| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
ジャイセルメールの僧 2010.08.11 Wednesday
     

  

インド西北部、ラージャスタン州の西の最果ての街、ジャイセルメールに滞在していた。パキスタン国境にきわめて近い為いつもインド陸軍の車が行き交い、警戒の厳しい地域である。にもかかわらず、ラージャスタン州政府は砂漠を売り物にして外国人観光客を呼び込み、外貨獲得に躍起になっている地域でもある。とりわけ冬の時期には多くの国外からの客がここを訪れ、売物の駱駝で行く“Desert Circuit”は人気があり、多くの外貨が落とされていくと言う。

昨夜は、若い日本人旅行者が同じ宿に泊まっていて久し振りに日本語の会話が飛び交った。彼らは取りたてて目的を持たずに気ままな旅をしている連中で、私が絵を描いている事を知ると描いているところを見たいと言う者が現れた。翌日の朝食を済ませて宿を飛び出すと二人の若者が後から着いてきた。ジャイセルメールは砂漠の真ん中にある岩山を巧みに利用して作られた城塞都市である。平地より一段高いところに城壁を巡らし、市民がその中に住む、さらに一番小高い中心部に城を築くと言った構造できわめて堅固な作りになっている。私は宿のある場所からさらに坂道を登って頂上の城を目指していた。石畳の上り坂はかなりの傾斜があって息がきれる。いくつかの大きなゲイトをくぐり、歩いて行くと、一人の僧侶が坂道を登って行くのに気がついた。その後ろ姿はやや年とっているようにも見えるが足取りは確かでなかなか早い。顔が見えなないが、その後ろ姿と足取りから何やら言うに言われぬ魅力を感じたのだった。私は急いで近くまで行きその姿を見ると、実に美しい髭を貯えた老僧であった。即座に「貴方を描かせてくれないか?」とたどたどしく、そして不仕付けに頼んでみた。僧は「かまわないが今急いでいるので、この上にあるシヴァの寺まで来てくれたら」と答える。慣れた道とはいえ僧の足取りは速い。汗をかきながら私たちはその後を追い、城のすぐ近くにある小さなシヴァ神を祀る寺にたどり着いた。

シヴァ寺院の中庭で待つこと30分、先程のサドゥーは額に朱色と黄色の粉を塗って現れた。奥のお堂で何時ものきまった勤めを終えて出てきた様子であった。眼光鋭くきりりとしたマスクに長く伸びた白い髭が良く似合う。早速座ってもらい、私は夢中でスケッチに取りかかった。時間が経っても僧はまったく動かなかった。こういうモデルにはめったにお目にかかれるものではない。途中一回だけ休憩を入れる。画面を覗き込んだ僧は自慢の髭をなでながら、もう少しだけ長くするように注文する。(病気をする以前はもっと長い髭を貯えていたのだと言う。)ペンと色鉛筆を駆使した作業のすべてが旨くいって、半時後に満足すべきスケッチが出来上がった。

完成したスケッチをまずは僧に差し出した。目を輝かしながら眺めていた僧は、大声で叫んだ。「わしだ!わしだ!わしがここにいる!」と。そして、僧は近くにいる寺の者に向かってさも満足そうに指を鳴らしながら「見てみろ、見てみろ」と言いながらスケッチを見せて歩いたのであった。明らかに興奮している様子であった。私も何やら充実した時間と満足のいく素描が出来た事で幸せな気分であった。戻ってきたスケッチの余白に何時ものように、名前(Maharaj Sagatmal)と年齢(70歳)そして場所(Jaisalmer)と日付け(198228日)を書き入れた。さらに、老僧に出来立てのスケッチを持ってもらい、記念撮影を済ませた後丁重な礼を言ってその場を離れた。後で、その僧はシヴァ派の有名な高僧である事を知った。


   それから7年の歳月が経ち、再びジャイセルメールを訪れる機会があった。私はどうしてもこのサドゥーに逢いたくて真っ先に例のシヴァ寺院を訪ねた。寺にあの僧の姿はなく、寺の住職たちに聞いてみるが様子がつかめない。亡くなったと言う者まで現れる始末。落胆して其の場を離れようとしている所に一人の男が現れ、僧の居場所を知っていると言う。彼の教え通りに訪ね歩き、やっとのことで僧を探し出す事が出来た。

僧は前に逢った時に比べて大分年老いていた。立派だった髭は少なくそして短くなり、あの堂々たる風格は消え失せてしまっていた。床に敷かれた蒲団から身を起こしてくれたものの、目はうつろで時折浮かべる笑みには力が無かった。私はにじり寄って僧の手を握り、7年前の話をすると「ウン、ウン、よく覚えているよ。」と言いながら強く手を握り返してきた。それから傍らにある写真アルバムを取り出してそれを捲り、私が日本から送った写真を見せてくれるのだった。「あの時はわしも元気だった。そしてあんたに生まれて初めて絵を描いてもらった。あれが最初で最後の尊い経験だったヨ。」と言って静かに微笑んだ。大勢の人々を救い、癒し、慰め、命の豊饒さのあらん限りを示して生きてきたこの僧は、訪れる人も無い粗末な小部屋で今ひっそりとその生涯を終えようとしていたのだった。

| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
修行僧(サドゥー)2 2010.07.13 Tuesday
      


不思議なチーラム


インドの誇る国産乗用車、アンバサダーに乗り、ラージャスタン州のジャイサルメールから北東方向に向っていた。半砂漠地帯のこの辺りは、棘のある小喬木が疎らに生えているだけで、作物を作るには適さない所である。疾走する車の前方に小高い丘が現れ、その頂上に赤い旗が一本翻っているのが目にはいった。同乗者の友だち、ヨゲッシは「あそこにはきっとサドゥー(修行僧)が居るよ」と言う。車の速度を落とし丘に通じる道を進んでいくと、レンガ造りの小さなアシュラム(修行場)があった。そしてヨゲッシの言った通り、年寄りと若い僧が住んでいた。狭い庭の中央に炉があり、小さな火が焚かれていた。素朴な顔立ちの年老いた僧は、名をスワミージャトガールと言い、シヴァ派の僧である事がわかった。

私はスケッチをさせて欲しい旨頼むと、オーオーと言いながら承諾してくれた。傍らの炉から灰を一摘み取って一滴の水と混ぜた後、いかにも慣れた手つきで己の額に擦り付けるのであった。

モデルになった僧は、身体全体を動かす事はなかったが、首や手などが時折小刻みに震えているのに気が付いた。薄手の衣を一枚纏っただけなので、寒さのせいではないかと思って聞くと、寒くないと言う。殆ど白くなった頭髪と髭は伸びるに任せ、僧ジャトガールは当年60歳になると言う。この地で長い間グル(師匠)と暮らしていたが、3年前に亡くなり、その後この若者と暮らすようになったと言う。

シヴァ派のサドゥーは、修行の中でガンジャ(大麻の葉)やその他の麻薬を使う者が多いと聞く。この僧も、例に漏れずその一人であった。スケッチが終ると、早速傍らのチーラム(麻薬を吸う素焼のパイプ)を取り出し、ガンジャを詰め始めた。それが身体を震えさせる原因になっている事は明らかであった。目が潤み、歯がぼろぼろになった者が多く、中にはが廻らなくなっても他人に説教をしているサドゥーに会ったこともある。

僧は、チーラムを吸いながら話し始めた。「私のグルは各地で修行し、何時の日からかこの地をアシュラムとし暮らすようになった。私も10年ほど前にここへやって来てグルジと暮らすようになった。様々な事を習い、様々の修行をしてきた。そして3年前の事であった。グルジは大きなチーラムを愛用していたが、何時もより多めにガンジャを詰めそれを吸っていた。すると、突然彼の姿が見えなくなってしまった。散々探し回ったがどこを捜してもグルジが居ない。先ほどまで彼が座っていたその場所を見ると、そこにはかすかに煙が残るチーラムがあり、吸い口からは、グルジの白髭が少しばかり覗いていた。」と言うのであった。              
“チーラムに吸い込まれたグルジ”を生涯の手本していたスワミージャトガールは、死に方までグルジをなぞろうとしている感が有った。

     

私の写生の中でスワミーは、心なしか寂しそうでも有り、また寒そうな顔に描き留められている。                198228日記)

| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
らくだ飼の男たち 2009.08.01 Saturday


ラージャスタン州の半砂漠地帯で、駱駝の群れを率いる一団と出会った。おおよそ200頭の駱駝を引きつれ、それを追う四人の男達は、故郷を遠く離れたこの地まで草を求めて旅をして来たという。「俺達の故郷には砂と乾いた土しかない」と言う一番年上の男は、砂漠に生れついた事を気にしている風でもない。物心ついた時には爺さんに連れられて今と同じように旅に出ていたという。自分が何年生きてきたのか、またこの旅が何日続いているのかなどまったく意に介していない風である。僅かながら故郷に草が生える時期があり、それに合わせて帰る事にしているといって微笑んだ。

4人のうちの二人は10歳前後の少年であった。20歳過ぎの若者に向って‘兄さん’と呼ぶので皆が身内であろうと思っていたが、夜の野営している所を訪ねて話を聞くと、夫々は何の血縁関係もなく、旅先で出会った者同志がたまたま一緒に旅をしているのだという。夫々は50頭ほどの駱駝を引き連れていて、昼間は人間より早足で気ままにのし歩くやっかいものを見事にコントロールしていた。そして、今は漆黒の闇に包まれた広野の片隅で、焚き火をしながら昼間の疲れを癒している。彼らのように、暗がりでものを見分けるという特殊能力を持ち合わせない私には、果たして昼間出会った人たちであるかどうかの区別もつかない。しかし、聞き覚えのある「アイエー!」の歓迎の声。同時に立ち上がった子供の一人は、傍らにうずくまって休んでいる子連れの母駱駝を無理やり起こして、早くも肢の付け根にある乳房を弄っている。つかさず子供の駱駝が起き上がってきて乳を吸い始める。乳の出が良くなった所で今度は素焼きの壷に絞り出す。後はゆっくりお飲みとばかりに子供に返してやる。何とすばやく、なんと美しい仕草をこの子供は見せてくれたことだろうか。初めて口にする暖められた駱駝の乳が絶品だった事は言うまでもない。

翌日、赤いターバンを捲いた4人の男達が、大人、子供の区別無く駱駝を追いながら遠くの広野を行くのを見た。

| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
家壁に描いた絵 2009.07.29 Wednesday




インド、ラージャスタン州の片田舎コタ、そのまた郊外の寒村に出かけた。
そこで出会ったゴピー一家は牛や水牛を飼っていて、牛乳を売って生計を立てている。
7人家族は小さな家に住み、暮らしは楽ではないが、皆明るい性格で屈託がない。
搾りたての乳を沸かし、「砂糖がないので、、」と言いながら勧めてくれた。

家の白壁には祭りの時子供たちが描いたという素朴な絵が描かれていて、そこには家族の名前も添えられていた。
野で牛を追いながら時折見かける飛行機、その飛行機に乗ってみたいというのが長男の夢だそうで、壁画には小さく飛行機の絵も描かれていた。

二年後、この一家に会いたくて出かけてみると、そこには家族の姿がなかった。
近所の数家族と一緒に家畜を連れ、コタの先に移住していったという。
乾燥の激しいこの地には草もまばらで、家畜に与える餌を確保することができなくなったという理由だった。

それを知るとなおさら会いたくなって、移住していったところを訪ねやっとのことで再開を果たすことができた。
ゴピー一家7人は粗末な萱ぶき小屋を建てて暮らしていたが、前と変わらぬ皆の笑顔をがあった。
「このあたりは穀倉地帯だから家畜のえさは十分にある、前より生活は楽になった。」
というものの、空き家にして来た「家に帰りたい」と本音をもらした。
| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
苦行の仏陀 2008.11.24 Monday
        仏陀

パキスタンのラホール博物館にある「苦行の仏陀」像。
断食を続ける仏陀の姿がリアルに表現されたこの石像は、紀元2世頃の作とされる秀作。

博物館で写生を続けていると、突然停電!
案内をしてくれていたパキスタン人の男が、持っていた懐中電灯を照らして写生するのを助けてくれたことを思い出す。
「日本に行ったらこの仕事で雇ってくれるか?」などと冗談を言っていたが、今はこの世にいない。
| エッセイ | comments(0) | trackbacks(0) | odori |
| 1/2 | >>